Franklin Delano Roosevelt Memorial :フランクリン・デラノ・ルーズベルト・メモリアル |
フランクリン・デラノ・ルーズベルトは、アメリカ合衆国の政治家
民主党出身の第32代アメリカ合衆国大統領(1933年 - 1945年)
アメリカ合衆国史上唯一、4選された大統領
アメリカ合衆国史上唯一の重度の身体障害を持つ大統領としても知られています。
1921年にポリオに罹り、その後遺症により、下半身が不自由で車いすを常用していたそうです。
生前は車いすの姿をマスコミに見られるのを非常に嫌った上、マスコミもあえて積極的に報道しなかったため、ルーズベルトが身体障害者であったことは米国民にはほとんど知られなかったのです。
またラジオ放送を通して演説し、直接国民に訴えかけるスタイルを重視した、メディアを巧みに利用した大統領として知られています。
彼の行った毎週のラジオ演説は「炉辺談話 fireside chats」と呼ばれ、国民に対する彼の見解の発表の場となりました。
それは彼の人気を支え、大戦中のアメリカ国民の重要な士気高揚策となったそうです。
まさしくラジオ時代の最先端を行く政治家であったと言えましょう。
ルーズベルトはその任期中に世界恐慌と第二次世界大戦を経験した米国人として、20世紀における中心人物のうちの一人であります。
男は窓から外れるとランカスターPA
アメリカが大恐慌の苦しみにあえぐ1933年に大統領職に就き、就任後わずか90日で有名な経済復興政策
「ニューディール政策」を発表。以来史上最長の13年間大統領を務めました。
彼の平和に対する国際組織の展望は死後に国際連合として結実しました。
しかし、ルーズベルトの評価は立場によって対極的であるそうです。
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や、交戦国である日本への原爆投下の原因となったマンハッタン計画を推し進めたため芳しいものではありません。
そのため日本人は一般的には良い印象と悪い印象の両方を持っているようであります。
そしてアフリカ系アメリカ人の公民権運動に対する失政
ヨシフ・スターリンに対する微妙な彼の姿勢は後の歴史家によって批判の対象となってしまいました。
しかしロナルド・レーガンのような幾人かの保守的な指導者は、彼の社会施策における全国的なリーダーシップを賞賛しています。
アメリカ国民が歴代大統領で最も尊敬する指導者は?と聞かれると上位に必ず位置する人物でもあります。
Franklin・D・Roosevelt Memorial |
さて 公園の東側にはタイダルベイスンの桜並木があり、園内には3300におよぶ様々な植物や樹木と6つの滝がデザインされています。
フランクリン・ルーズベルト大統領の13年間が「ルーム」と呼ばれる
4つの自由「Four Freedoms」をテーマにしたエリアに表現されています。
resturant 、グレートフォールズ、メリーランド州
「ルーム」のいたるところに「水」が見られますが、水の勢いがフランクリン・ルーズベルトの生涯の隆盛を反映しているそうです。
しかし、冬季は水が流されていませんので、残念です。
「第一ルーム」
大恐慌の最中、フランクリン・ルーズベルトの大統領就任とニューディール政策の敢行はアメリカに復興の希望をもたらしました。
ニューディール政策は、アメリカ合衆国大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルトが世界恐慌を克服するために行った一連の経済政策(新規まき直し政策ともいいます。)
「三つのR - 救済、回復および改革」:Three R's - relief, recovery and reform
の綱領で世界恐慌と戦うとして行われました。
彼はそのスピーチの中で、ニューディールの用語を造りました。
「私は誓約します。私は、米国民のための新規まき直し政策を誓約します。 I pledge you, I pledge myself, to a new deal for the American people.」
それまでの古典的な自由主義的経済政策(政府は市場には介入せず、経済政策も最低限なものにとどめる)から、政府がある程度経済へ関与する社会主義的な政策へと転換したものであり、第二次世界大戦後の資本主義国の経済政策に大きな影響を与えました。
TVA(テネシー川流域開発公社)などの公共事業を中心に、全国産業復興法や農業調整法の制定などさまざまな景気復興策を実施しました。
シュワルツ製造スーフォールズ
これによってアメリカは景気回復を図しました。
1930年代中ごろには回復の兆しが現れましたが、いち早く均衡財政へ回帰しようとする動きから、政策後退が起きたために1930年代後半には危機的な状況へ陥ることとなります。
以後、本格的な景気の回復は第二次世界大戦による軍需の増加を待たねばならなかったのです。
実際、1941年の第二次世界大戦参戦以降は軍需の増大によってアメリカ経済は回復しました。このため、ニューディール政策が成功したのかどうかについては賛否両論が有ります。
近年では太平洋戦争が無くても成功したのではないかという意見と、最初から太平洋戦争の開戦が無ければ成功しえない政策であったとい う意見が対立し、議論の対象になっています。
が、さらにはニューディール政策の失敗は、アメリカを軍事大国へと押し上げると同時に、軍国主義国家にもしてしまったと言われることもあるようです。(wikipediaを参考にさせていただきました。)
「第二ルーム」
第二ルームのテーマは「飢えと希望」です。
パンを買うのに列を作る5人のブロンズ像はジョージ・シーガルの作品です。
そしてフランクリン・ルーズベルトのラジオ演説を聴き希望をつなぐ市民の像などが安置されています。
それぞれの顔が鬱屈としていて、いかにも「飢えにあえぐ国民」の様子がうまく表現されています。
そして
「第三ルーム」
テーマは「戦争の破壊と混乱」 です。
「I have seen a war:私は戦争を見た」ではじまり・・
「I hate war:私は戦争を憎む」で終わるフランクリン・ルーズベルトの言葉が刻まれます。
そしてフランクリン・ルーズベルトと愛犬Fala(ファラ)の巨大な銅像が置かれています。
最後に
「第四ルーム」
テーマは「平和への礎」です。
終戦の安堵が象徴されたこのルームには
フランクリン・ルーズベルトの姿は見当たりません・・
彼は共和党 候補トーマス・E.デューイに勝ち、1944年11月7日に先例のない4選を果たしまます。
しかしながら肖像画の制作途中、1945年4月12日の昼食前に脳卒中で急死
副大統領ハリー・S・トルーマンが大統領に昇格されました。
その後5月にはドイツが降伏、8月には日本が降伏して第二次世界大戦が終結する目前の死でありました。
この時、日本政府はアメリカの敵国であったにも拘らず、彼の死を悼む内容の声明を発表したのは有名なお話です。
第四のルームには、賢婦人として名高い
Eleanor Roosevelt:エレノア・ルーズベルト夫人の像がございます。
数々の人気のあるファーストレディーがいますが、歴代大統領のモニュメントに夫人の像が置かれることは稀で、彼女が初めてだそうです。
片隅のショップには、ルーズベルト関連の貴重な図書、その当時の社会をそのまま垣間見れるような新聞などが販売されています。おそらくその当時に日本で幼少期をお過ごしになった方々には、とても感慨深い場所だと思います。
ではまた明日!
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